STORY
PROLOGUE最後の秘境
「黒部川」
富山県と長野県の境にある3,000m級の山々を水源に、富山湾へと流れる黒部川。年間降水量は雨雪を合わせて約4,000㎜。大量の水が、火山活動で隆起した岩を侵食し、類い稀なる急流河川が形成された。かねてより大規模な崩落や氾濫を繰り返してきたため、集落はおろか道さえない険峻な両岸。こうして黒部峡谷は、電力需要が急増して水力発電所が各地に建設されていった明治後期以後も、誰も手をつけられない「秘境」としてあり続けた。
CHAPTER 1秘境黒部の電源開発、
ここに始まる。
高峰は必死であった。時は明治の終わり。日本の発展には、産業用アルミニウムの国内生産が急務だった。しかし、アルミニウム精錬には莫大な電力が必要であるにもかかわらず、日本の発電事業はまだまだ未発達。発電所建設から着手しなければならない。そこで高峰が着目したのが故郷富山の中央を流れる神通川だった。しかし、すでに複数の企業が水利権を申請しており交渉は難航した。そこで新たに目を付けたのが黒部川だった。
CHAPTER 2水利権を得て、
電源開発へ。
急峻な地形で発電所を建設するには土木と電気の知見が欠かせない。優秀な技術者を探していた高峰が声をかけたのが、逓信省の発電水力調査技師を務めていた山田胖である。現地に赴き調査を重ねた結果、豊富な水を湛える黒部川は、水力発電にも好条件が揃う地であることが確認された。この頃にはすでにいくつかの企業から水利権の競願が出されていたが、高峰たち東洋アルミナムの事業が国策として認められ、水利権を獲得。ところが、いよいよ計画が動き出そうとしていた1922年に高峰が急逝。計画は電力事業を主とする日本電力株式会社に引き継がれ、山田は現場責任者として留まった。
CHAPTER 3大自然に阻まれた難工事。
周辺住民への配慮と
深遠なる観光地開発計画。
高峰逝去の翌年1923年には、発電所建設に先立って資材運搬用の軌道敷設工事が開始された。三日市から宇奈月まではほどなく完了した軌道敷設だが、宇奈月から上流、絶壁の中腹を掘り進む工事は難航。幾度となく大崩壊や雪崩に阻まれて見直しを強いられ、ルートの修正を余儀なくされた。時を同じくして、地元住民からは資材運搬のために敷設する貨物鉄道の旅客利用や江戸時代から続く峡谷の各温泉の存続を望む声が聞かれるようになり、指揮をとる山田はその声を支持。現在の富山地方鉄道宇奈月本線と宇奈月温泉の基礎は、この時に築かれたものである。
CHAPTER 4黒部川初の
発電所が完成
さまざまな苦難を乗り越え、1927年にはついに黒部川で初めての本格的な水力発電所となる「柳河原発電所」が運転を開始した。正式な名称ではないものの実質的には黒部川第一発電所に位置づけられる。最大出力は50,700kw。当時の日本では最大規模の発電所であった。その後、下流に宇奈月ダムが建設されることに伴い1992年に廃止、現在は下流70mの地点に「新柳河原発電所」が設けられている。
CHAPTER 51937年、欅平まで開通。
「クロヨン」建設への礎となる。
宇奈月を出発する黒部専用鉄道(現黒部峡谷トロッコ電車)は徐々に延伸され、1937年には欅平までの全線が開通。建築資材の輸送が効率化されたことで、黒部川上流域の電源開発は加速する。1940年には、最高温度摂氏166度の高熱地帯が従事者を苦しめた高熱隧道、黒部川第三発電所が完成して発電を開始。戦時下の電力会社統合を経て、戦後事業を引き継いだ関西電力株式会社による、1963年の黒部ダム、黒部川第四発電所(通称くろよん)建設、さらには故・高峰が思い描いた日本の発展に向けて、盤石の土台が築かれていった。